日本実験動物技術者協会 関西支部

Japanese Association for Experimental Animal Technologists Kansai-Branch

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第五回中国北方八省実験動物科技年会参加報告
(第一報・大会前)


支部交流担当・坂本 

 第五回中国北方八省実験動物科技年会に参加した。中国遼寧省実験動物学会との交流ならびに本大会への参加の背景については、今年度支部ニュース No.147 ならびに支部ホームページを参照されたい。基本的には関西支部会員の皆様へも参加のお誘いをした訳だが、如何に隣国とはいえ、海の向うで、かつ、相応に費用負担も生じる大会への参加に対して簡単に『私も行きたい』と手が上がるはずもなく、結果として池渕支部長と私の2名での参加となった。真面目な大会内容の報告は第二報で記させていただき、第一報では我々の中国体験記を記させていただく。

 大会会場は遼寧省大連市、大連麗景大酒店であった。麗景は英語ではREGENTと記す。英語が先か、中国語が先かは知らないが、なんとなく発音が似ていて雰囲気の良い言葉を捜して充てただけのようにも感じる。ちなみに大酒店とはHOTELの事であり、大連はDalianと記すので、大連麗景大酒店はDalian Regent Hotelとなる。普段出張で利用している旅行社でも過去に利用実績がないというこのホテルが会場であり、後に記すが我々は幾つかのハプニングを経験する事になる。先に『池渕支部長と私の2名だけで関西支部からは参加した』と記した理由は、中国遼寧省実験動物学会は実技協関西支部だけではなく、九州実験動物研究会との交流も始めている。よって九州からの訪中団もあり、これに一部個人レベルでのこれまでの交流を踏まえての参加という方々を加えて、最終的には総勢16名の日本からの参加となった。この訪中団の中で関西支部からの参加は我々2名となった。

 この16名の訪中団は、東北大学・笠井教授の仙台空港出発を始め、成田、関西、福岡の各空港からそれぞれ出発し、件の大連麗景大酒店で現地集合となるのだが、関空組は私と池渕支部長の2名だけであり、この2人が昼過ぎに到着し、以降の組は夕刻の到着であった。ところが(当たり前かもしれないが・・・)大連空港に出迎えてくれた大連医科大学の人は英語が全く話せず、ホテルに到着しても出会った大会準備のスタッフには英語が話せる人が全くいないという状態に遭遇した。この交流に先立って、同じ遼寧省の瀋陽市(中国医科大学他)を仕事で二度訪問している私としては、瀋陽では相手側に相応に英語が話せる人がいて、一部には少し日本語も話せる人がいた事もあって、意思疎通には困らなかった。瀋陽で出会った人達の中にも、本大会に参加する人が相応にいる事は分かっていたのだが、この時点ではまだ到着していない。池渕支部長は昨年夏の中国出張以降、『英語でしゃべらナイト』ならぬ、『中国語でしゃべらナイト』の中国語マイ・ブームであったのだが、実戦投入は初めてであり、少々慣れを要する。かくて我々は到着早々コミュニケーションに困ってしまった。案内された滞在中利用すると思わしき部屋は、池渕支部長の部屋はバスタブが手荒に取り払われた形跡があり、シャワーのみ、テレビは映らず、インターネット接続のコネクタはあるが、接続すれども繋がらない。ちなみに隣の私が放り込まれた部屋はバスタブもあって、テレビも映り、ネットも繋がりメールも読む事が出来たが、自分が良ければそれで良いと喜んでもいられない。大男2人が柄にもなく不安で弱気になっていた所へ、差し入れの軽食をもって1人の女性が現れた。彼女の名前は、宋雅楠(英語表記でSong Yanan)さんという。Song さんは、遠慮がちに英語で『お腹が空いているだろうから、この食事を食べてください』と言ってくれた。『英語が話せるのですか?』と訪ねると、『少し話せます』と返答。以降、瀋陽の旧友や、成田・福岡組の到着までの間(笠井教授は北京経由で翌日到着)、そして滞在中と、彼女には随所で私たちを助けて頂いた。Songさんの事を此処まで記すのは、彼女が素敵な小姐(xiaojie, “シャオチエ”、中国では若い女性の事をこう呼ぶ・・・らしい)だからというだけではない。帰国後に記念撮影した写真をメールで送ると、返しに彼女から頂いたメールには、ゴールデンレトリバーと海岸で戯れる写真が添付されていた。その写真の説明には、『私は盲導犬の訓練士をやっています』と記されていた。てっきり 大連医科大学の学生だと思っていた私はその質問を返信でぶつけると、『私の勤務先は大連医科大学、動物実験センターのスタッフです。仕事は盲導犬のトレーニング、今は Golden retriever を担当しています。』という返事が返ってきた。最近では北京五輪の話題で中国の道路事情なども頻繁にニュースで取り上げられるので、日本の事情とはかなり異なる事を皆さんも御存知だと思う。そのような中国の道路事情の中で、盲導犬がどのように機能・普及しているのかも興味深いが、一方で医科大学の動物実験センターで盲導犬の訓練士をやっているという事も、日本の状況では(私は)まだ聞いた事がない。勿論、私の英文読力はかなり怪しいので理解を誤っている可能性も十分にある。ただ、いずれにしても、ある意味とても興味深い話題なので、再度しっかりと訊ねて何かの機会に大連医科大学の状況をレポートしてみたいと思う。日本の我々が学べる事もその中にはきっとあると想像する。

 Songさんが説明してくれたところでは、我々が最初に放り込まれた部屋は、全員揃うまでの仮の部屋で、実際に滞在する部屋は別のフロアになるという。事実、後ほど案内された正式な部屋は、これなら大丈夫といえる内容であった。その後、夕刻になり、瀋陽の旧友や、成田・福岡組も到着し、不安一杯であった我々はホッとした気の緩みを伴って大会前夜のウエルカム懇親会へと突入した・・・が、この懇親会が(私にとっては)“落とし穴”であった。ジャッキー・チェンの映画に、酔拳なる作品もあったが、とにかく中国の人は酒を酌み交わす。その量とペースたるや半端ではない。注がれれば必ず注ぎ返し、かつ、注がれた酒は必ず飲み干す。これが延々と繰り返される。宴の場では、『白酒(baijiu)』なる50度以上のアルコール 度数の(ちなみに当夜の物は53度であった)お酒が次から次へと出てきて、麦茶の如く呑まれている。この白酒であるが、通常53度のアルコール度数であれば、揮発性なども関係して飲み難いのだが、口当たりまろやかで、のどごしも良く呑みやすい。中国では乾杯の事を耳で聞く発音的には『カンペー!』という。そこらかしこで、『カンペー!』の声と共に白酒が酌み交わされる。我々の隣のテーブルでは今大会の双方の大将 対決が始まっている。中国側は大会長的立場である中国医科大学の王太一 教授、日本側は訪中団のリーダー的存在の熊本大学・浦野徹 教授が交互に『カンペー!』と叫んでいる。この熱気とホッとした気の緩みから我々も『カンペー!』を連発して、呑めや!歌え!の大騒ぎとなってしまった。関西支部イベントの懇親会などに出た事のある人なら分かる方もいると思うが、私が、酒を呑みまくる姿を見た人は(平たく言うと酔った姿)殆どいないと思う。普段は呑めないのではなく、呑まないようにしているが、酒に弱いという認識はもっていない。一方、池渕支部長は見た目も中身も含めて酒豪であり、『何処からでもかかって来い!』の風情である。この日も浦野教授と二人揃って不沈艦であった・・・が、しかし、この日の私は制御回路が外れてしまったようである。人を捉まえては『カンペー!』を連発し、その挙句には“ろれつ”が回らなくなり、立った時には“千鳥足”で、果てはエレベーターの前まで行った所で記憶がプツリと途切れた。次に気がついた時には午前3時で部屋のベッドの上。極度の頭痛と吐き気に襲われ、思い返してもエレベーター前からの記憶がない。翌朝聞けば、私は宿泊部屋のあるフロアへ戻った後、他の先生のパソコンの調子が悪いのをメンテしているらしいのだが、お礼を言われても此方はそのあたりの記憶が全く欠落している。こんなになったのは素直に書けない年齢の頃以来である。状態は一向に回復せず、苦しみながらの大会本番となった。日本側の発表者では、唯一私の発表に質問があったのだが、やっとの思いで答えた次第で無様な中国デビューとなった。皆さん、中国からの客人を日本に招いている時ならいざ知らず、こちらが客人的立場で中国に行った時に先方から受けるもてなしではくれぐれも呑みすぎに御注意を!

 最後に旅先での健康トラブルの事について記す。今夏は中国における食の不安に関するレポートが日本をにぎわしたが、それとは関係ないと思われるが訪中団も体調不良に直面し食べ物、飲み物が体に合わないという人が少なからず出てきた。私が白酒の呑みすぎで苦しんでいる頃、別な部屋では日本からの参加者が腹痛その他の不調で悶絶していた。最初は2人程であったが、最終的には約半数が同様の不調に陥り、内2人は病院へ行き点滴を受けるまでに至った。ちなみに私は酒には負けたがそれ以外は快調そのものであった。不沈艦の池渕支部長は記すまでもない。全員ではなく、一部の人達であったという事は相性の悪い人と、そうでない人がいたという事(この状況をSPF組とコンベンショナル組に例えた先生もいた。私と支部長はコンベンショナル動物という事になる・・・納得)。幸いにも殆どの方が回復し、最終日にはお世話になった大連医科大学、中国医科大学の要人を迎えて、日本側主催の感謝の宴を催す事が出来た。

 中国の人は尽された礼を忘れる事なく、同等か、それ以上の礼を以って返すという事を聞いた事がある。そして、師・先輩等を敬う儒教の精神は今もしっかりと生きている。スペースの関係と文才の乏しさからドタバタの珍道中ばかり記したが、随所に彼らの気配り、配慮を感じる部分があった。時に日本人感覚では理解出来ない場面もあるが、それは文化の違いであり、彼らも我々に対して同じ事を感じていると思う。北方八省の一部はその昔、満州とも呼ばれた時期があり、日本と中国にとって複雑な過去を持つ地域でもある。国同士の政治的な面では色々あるようであるが、実際に触れ合う現地の人々は皆優しく、心温かい人達であった。

以降、第二報へ続く・・・