『動物実験倫理・実験動物福祉 −社会の流れの中で考える−』

北 徳 
川崎医科大学 医用生物センター

実験動物施設運営の現場に勤務して30年になりますが、その後半に動物実験倫理とか実験動物福祉の問題に私なりに取り組んできました。これまで考えてきたことについてお話ししこれまでの取り組みの締めくくりをさせていただけたらと思います。

 私が実験動物の道に入った理由は単純で、動物が好きだったからです。今の時代だと、「動物が好き」だから「動物を実験に使うなんて許せない」となる場合も多いのでしょうが、私の場合は動物が好きだから畜産学を専攻し結果として実験動物となったわけです。ですから実験動物を扱うようになってからも「愛情を持って実験動物の世話をせよ」といった言葉を素直に受け入れることができました。ところが医科大学の施設に勤務してしばらくすると、目の前で動物実験をしている研究者たちが実験動物に対して愛情を持って行動しているようには感じられなくなり、だんだんと「どういう言葉で説明したら、彼らが実験動物を命あるものとして丁寧に扱うようになるのだろうか?」ということを考えるようになりました。その延長が倫理・福祉の問題であったわけです。

 倫理・福祉を自分なりに考え、またJAVA会員の人たちから強烈な批判を浴びながら色々と考えさせられて、結論として到達したのは、「社会の流れの中で考える」ということです。動物実験倫理や実験動物福祉の問題は「社会の流れの中で考える」しかない、という意味です。あるいは、「社会の流れへの対応が重要だ」という意味でもあります。

 この20年ばかり、実験動物関係者は倫理・福祉問題で揺れてきましたが、このところ進むべき方向について大まかな共通認識になんとか到達したように見受けられます。

 それは、『動愛法』の動物実験関係条項をちゃんとした条文に改正し、動物実験委員会の機能・権限を強化し、施設の査察・認証制度を確立し、実験者に対する指導・認定制度を創設する方向へ進まなければならないという認識です。最近、この分野全体がそういう方向に具体的に進み始めているように私は感じています。望ましい方向と思います。でもなんだか10年遅いようにも思います。もっと早く方向を明確にすべきだったなあ、と社会の流れという視点からはかなり不満でもあります。

10年前、私は『実験動物技術29巻』に掲載された論文の中で「動物実験倫理の確立・維持および社会的信頼の回復・維持に必要とされる制度」として次の6項目を提示しました。

@動物実験を厳密な許可制とすること。
A動物実験に関する研究者の資格制度を設けること。
B動物実験は、すべて事後の公表を義務づけ、すべてデータベースとして自由に検索できるようにすること。(研究者個人、研究機関並びに国の義務とすること。)
C実験動物の福祉とそこで働く人間の福祉を向上、維持できる人事態勢の確保を研究機関に義務づけること。
D実験動物の福祉とそこで働く人間の福祉を向上、維持できる設備整備を研究機関に義務づけること。
E国に実験動物福祉・動物実験倫理審議会を常設すること。審議委員には種々の立場の民間人も含めること。

 
 要するに少なくとも上の6項目を組み込んだ動物実験規制法のような法律が必要だろういうことです。施設運営の現場にいてその必要性を強く感じていたわけですが、「動愛法」が今度の改正で少しはこれらの項目に近づくのではないか、と少しだけ期待しています。

 しかし、実は法治国家における「法」は、それだけでは「完全」ではありません。法律に反していなければ十分というわけではない。法律に反していなければ何をやってもいいというわけではない。私たちが日常を生きる上で、その点が実は一番重要なポイントであるわけです。最も重要なのは「社会的信頼」と思われます。法律は「社会的信頼」を得るための足がかりにすぎません。ですから、近いうちに「動愛法」が改正されるでしょうが、私たちは改正をスタート地点として改めて取り組みを開始しなければなりません。

 皆さんには日常の生活の中で社会の風を敏感に感じ取りながら、社会の流れの中で倫理・福祉を考え続けられることを期待するのですが、そこで大変重要なのは「社会全体を見る目」と「自己認識」であろうと思います。自分は何者で、何を感じ、どのような社会の中で、どのように行動しようとしているのか。それをよく見つめ、見極めた上で自分の「実感」を大切にすること、自分の「実感」に正直であることが重要であると思います。ですから皆さんには、ぜひとも勇気を持って事実を見据え、本当は自分は何を感じているのかを意識しながら、感性と思考を柔軟に保ちつつ社会の流れの中で「信頼」とはなにか、「信頼」を得るにはどうしたらいいかを考え続けていただきたいと思います。

 動物実験倫理・実験動物福祉を考えるということは、自分自身の「実感」の上に立って「信頼」とは何かを考えることに尽きる。私は今そんなふうに思っております。